僕の人生ギャグ

僕の情けない笑える半生を晒します!

新小学校生活

友達とも別れ、新しい小学校へ入学をした。

 

新築マンションはいままでのボロアパートとは違い、すべてが新品。

6Fでベランダからの景色も最高。

 

立地は駅からは少し遠い、だが生活する分にはスーパーが近くにあったりと困らない。

 

最高のスタートをきったつもりだが、

やはり新しい学校にはなじめず、友達も少なかった。

 

授業中にも先生の話が聞けず、人と違うことをしていた。

そして、授業中に大好きだった親父に会いたくなり、授業中に抜け出してしまった。

 

当然先生は僕を探しにくる。

僕は先生に見つかりたくなくて、1Fの図工室の机の下に隠れる。

 

子供の浅知恵もむなしく、すぐ先生に見つかる。

先生は僕を見つけ、両肩をおさえて、必死に僕を説得する。

僕はそれがとても嫌で先生の手を振りほどく。

 

そして僕の力が勢い余って、先生の爪を剥いでしまった。

 

先生に怪我をさせてしまった。

 

その日の夜に、家に先生の両親が殴り込みにきて、結局治療費を払うことになった。

お袋は先生の両親の悪口をずっと言っていた、あの時は本当に申し訳ない。

 

その頃からか、同性のクラスメイトからいじめをうけるようになった。

僕には友達がいない。

 

そしてマンションの駐車場で一人で遊ぶようになった。

 

そんな頃、同じマンションの住人の2つ上女の子と知り合う。

いつしか一緒に遊ぶようになった。

 

女の子には妹がいた、その子を含めて3人でよく遊んだ。

 

外で遊んだり、女の子のマンションに遊びに行ったり、友達がいない僕にとってはとても楽しかった。

 

ある日、当時流行っていたミニ四駆を購入した。

当然コースなどなく、家の前の立体駐車場で女の子と走らせて遊んでいた。

 

そこに僕をいじめている三人組が現れた。

 

そいつらは僕のミニ四駆をよこせと言う、当然買ったぼかりのミニ四駆を手放すわけがなく、拒絶した。

 

彼らはその言葉を聞くと、僕のミニ四駆に放尿をした。

買ったばかりのミニ四駆が尿だらけだ、もう使う気にもならず、泣きながら女の子と帰宅した。

我ながら情けない話だ。

 

そしてしばらくすると女の子の友達で男の子を紹介された。

久しぶりの同性の友達だ、僕はうれしかった。

 

その日から彼と毎日遊んだ。

 

当時流行ったビーダマンも一緒にやった。

 

どこかで金色のビーダマンがレアだと知り、玄関前で自分のビーダマンをスプレーで金色に塗っていたら、玄関前が金色だらけになって、シンナーでも落ちなくて、大目玉を食らったのが懐かしい。

 

そしてその彼を通じ、他校の生徒と仲良くなった。

 

ここから僕の交友関係は広くなる。

 

スーパーファミコンが流行っていて、だれかの家でゲームをすることがトレンドとなっていく。

僕も親に頼んで、スーパーファミコンを購入してもらう。

 

僕がいない間はお袋がゲームをしていたようで、ストリートファイターは僕より強かった。

主婦おそるべし。

 

友達にも恵まれはじめ、親父の仕事も軌道にのったときに、久しぶりに家族で外出することになった。

親父のはからいで、僕が当時好きだった、クレヨンしんちゃんの映画を見に行くことになった。

両親の手をとり、映画館へ入る。

 

当時は夏で、クーラーがこれでもかというぐらい効いていて、OLでなくともひざ掛けが必要なぐらい寒かった。

 

映画も中盤、クライマックスに近づく、そこで僕は映画館の座席でお腹が痛くなった。

クーラーのせいだな、トイレに行こうと席を立った瞬間。

 

僕は脱糞してしまった。

 

小学生だったが、固くて20センチぐらいの長さのブツだ。

 

固いので、常に肛門に干渉している。

 

とてもつらい。

 

両親にすぐにカミングアウトし、映画の途中だったが、トイレでブツを処理し、映画館を出ることにした。

 

だが僕のブリーフはブツが干渉したせいで、再度装着するには戸惑ってしまう。

 

お袋がすぐにコンビニで新しいブリーフを購入してくれてことなきを得た。

 

これは僕の脱糞エピソードの序章に過ぎない

 

 

 

 

僕の幼少期~小学校入学

僕が小学校に入学する頃には、母方の両親、じいさんとばあさんにランドセルを買ってもらった。

牛革のしっかりとしたランドセルだ。

部屋の中でもランドセルをしょっていたのが懐かしい。

 

今思うと子供というのは周りの大人に祝福されて育っていくのだと思う。

無条件の愛というのは人生でこれっきりなのだろうか。

 

そして無事、東久留米の小学校へ入学した。

 

アパートの住人に、僕と同級生の男の子がいることが判明した。

いつも親父といたから気が付かなかった。

彼とは入学後、すぐに友達になった。

 

学校が休みの日もアパート前の広場でよく遊んだ。

サツキの花をなめると甘いことも彼と知った、理由はわからないが、よく彼と蟻を食べていた。

小学2年の時だった、親父の収入が上がり、新築マンションへ引っ越すことになった。

 

同じ東久留米内だが、小学校が変わることになった。

仲良しだった彼とのお別れだ。

 

朝からずっと泣いていた記憶がある。

僕はこの頃からずっと泣き虫だ。

 

 

 

僕の生誕~幼少期

僕は1989年バブル絶頂期に東京都の武蔵小金井で生まれた。

 

親父は小料理屋の板前

 

お袋は美容師で群馬県から集団就職?で都心に就職

 

二人のなりそめは聞いたことがないが、僕が生まれてからは武蔵小金井駅前で小料理屋を経営していたそうだ。

時代背景もあり、経営はそこそこやっていけた。

しかし、バブル経済崩壊後、小料理屋を利用する人もいなくなり、廃業。

 

のちに親父はタクシー運転手に、お袋は生命保険のセールスマンに転職。

住居も東久留米の安いアパートへ引っ越した。

 

僕はこの時、保育園児だった。

親父は料理と釣りが好きで、お袋より料理は上手だし、よく釣りをしに海へ連れて行ってくれた。

いまでも僕は海が好きだ、潜在的に好きで、理由はない。

多分親父が好きだったから、親父が好きなものは自分も好きだということなのか。

 

この時のお袋の記憶はあまりない、いつも親父と一緒にいた。

そんなとき、妹が生まれた。

僕とは3つ違う、親父似の丸顔でかわいい。

 

親父は男の子の僕をよくかわいがってくれた。

 

親父の赤い原付スクーターのステップに僕を立たせて、近所の団子屋によく連れて行き、磯部団子を買ってくれた。

いまでもどこかで見かけると買ってしまう、思い出の品だ。

親父はこのころからよくパチンコをするようになった。

元々温厚で優しい、料理好きないい親父だった。

当時は風営法も緩く、親父と一緒にパチンコ店に行っても問題なかった。

親父がパチンコ台から離れるときに僕が変わりにパチンコを打つことも問題なかったし、よく代わりに打っていた。

親父がパチンコに夢中な時はよくニチレイの冷凍食品の自販機(高速のSAにあるようなやつ)のから揚げか焼きおにぎりを買ってもらっていた。

しなしなのから揚げがおいしくて、とても好きだった。

 

このころの記憶はほとんど親父との記憶しかない、親父は本当に僕をかわいがってくれた、大好きだった。